腹よわ男子の日記

お腹が弱い。ホラー映画が好き。スウェーデンの大学院でサステナビリティとリーダーシップの修士号をとりました〜。

十年の歳月②

 

僕自身が印象に残った場所として、トレーニングレストランと国境沿いの村があげられる。
 
トレーニングレストラン。
問題のある子だけを雇い、サービス業について一から指導する。いや、一緒になって、考えて行動していくという方が近い。それぞれの子にあわせるためマニュアルはない。
 
そもそも、僕は地方自治体の職員として働いていたので、地域のことについては他の人より熱量がある。中間支援組織も運営していたので、個人がどういう風に独り立ちしていくかを経験した身としては、このポジションの大変さが身にしみてわかる。それを20年以上も続けているのだ。
しかも、一緒になって成長していった子が卒業することも厭わない。別のレストランで働きだす人もたくさんいるらしい。本人のことを一番に考えているのだ。
こういった哲学と経営(経済的な面も含め)、そして社会にも貢献する形を作るのはすんごく難しい。近江商人の三方よしにさらに、将来までも良いっていう。実践している人にあえてとても清々しさを感じた訪問だった。
 
そして、国境沿いの村。
ここは、国籍がない人たちが暮らしている。もともと、カンボジアベトナムを行き来していて暮らしていた人たちが、ベトナムの方に戻って来た中で生まれた村。ここ数年で増加をたどっていて、住人は湖の魚を食べて暮らしている。1つ、20万ドンで作れる小さな小屋に何家族かが一緒になっていた。この村の支援をしているのが教会の神父さんで、村の子供達の未来を心配していた。
心に残った言葉が「彼らは動物のように暮らしている。」 
 これまで神父さんは子供の教育や様々な支援を試みた中で「ご飯をくれるなら、くる。」という態度に基づいたモノがあったらしい。
 
僕自身がこのとき頭で考えていたのは、トレーニングレストランの子たちだった。彼らは、サービスできるようになりたい?って聞くと「なりたい!」と答えている。やっていく意志が少なからずあるのだ。
けれど、この村ではその前提すら危ぶまれる。どういう風にこの状況をよくするようなコトができるのか全く想像ができなかった。と同時に、なんで神父さんはこんな風にできるのかなという風に考えていた。
質問することもできたけど、僕が納得したい回答を聞きたいだけなのではないかと思って聞くのはやめた。
 
帰り際に、自分は「どこで、誰と、何をする」のだろうと、考えながら帰っていった。
西村佳哲さんの言葉。
 
海外も日本も関係ない。根っこでつながっている。
誰かが、誰かのために、何かをしているんだ。その周りでおこっていることには国という区別はない。
 
 
 
 
 
 

十年の歳月

ベトナムカンボジア旅行記録
 
10年ぶりのベトナムホーチミン空港におりたつ。
早速空港が新しくなっていることに気づく。温度は30度くらいで、暑い。
昨日まで冬だったのがおかしい。
 
ツアーのお手伝いだったので、参加者がまずびっくりする。
ベトナムって道路舗装されてなくて牛がいると思ってました。
いつの時代やねん。
 
ちなみに、うちの親もそんなリアクションをする。いつまでたってもベトナムカンボジアのイメージは
払拭されない。それは発展途上国全般にいえることかも。
 
ホーチミンは1400万人くらいいるらしい。アジアでは上海につぐNO2。
ビールは日本の三倍の消費量。
僕が確認できただけで、無印、ユニクロ、サッポロ、高島屋、イオンが進出してきてる。
ミニストップ、ファミマは名前がしでいたるところにある。
10年前はバイタクで移動してたけど、今ではタクシー移動が便利。初乗り1.1万ドンくらいだったかな。五十円くらいからのスタート。
wifiはどこでも繋がる、カフェ、空港、ホテル、スーパー、日本より進んでいる。
コーヒーは100円くらい。高いお店で飲むと日本とほとんど金額が変わらない。
住んでる人曰く、違いはもうほぼ人件費だけなんじゃないかとのこと。
 
そして、日本の数倍の速さで経済成長が進んでいるらしい。
規模は違うと思うけど、経済成長が早いってなんだか心配する。
 
旅人の友人の言葉を思い出す。
とある中東の人に聞いたこと「お金が欲しい、裕福になりたい。」
経済的な豊かの先に「日本」っていう国があるなら、経済だけに軸足を置いた成長には疑問がある。
でも、その気持ちもわかる。
 
トイレが一回で流れたほうがいいし、あったかいシャワー浴びたいよね。
サービスは顧客目線の気持ちいい方がいいだろうし、明日のご飯を心配しない方がいい。
 
10年前と違ってあまりワクワクしない。
旅慣れたからだろうか、景色が変わっているからだろうか。
 
ともあれ、二週間の旅を楽しもう。
あの時のとの違いは、大学生ではなくなったことだろうな。
 

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メコン川の夕暮れは素晴らしく美しい

僕は気にしてないよ、名札というものがあったらなら。

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フィリピン留学から帰って来た飛行機での話。
おそらくドイツ人、の家族が6人で乗って来た。
 
飛行機って大きく分けると3つ座るところあるじゃん。
窓側、真ん中、反対の窓側。
だいたい、3列、3列、3列とかくらいかな。真ん中が4列もあるのかな。
 
僕は、窓側の席の通路側に座ってて、真ん中にその家族が座ってたの。
子供が4人で親御さん。一番小さい子は多分2歳くらいで一番大きい子は小学生でいったら
3、4年生くらいだったかな。
一番小さい子以外の3人は、元気がありあまってる感じで、全然席でじっとしてられなかったんだよね。
 
通路をぐるぐるまわったり、兄弟でケンカしちゃったり、
どれだけ近くに座ってたかで感じも変わると思うけど、客観的には少し「騒いてる」っていう感じだった。
日本だったら「ごめんなさい。なんとかちゃん静かにして!」って感じだけどそのドイツ人も「ごめんなさい」っていう感じだったけど、乳飲み子がいるから、その3人まで手が回らない感じだった。
 
 
案の定、自分が座ってたところの2つ前くらいに座っていたコワモテのおっさんが小さい子供たちを日本語で注意してたんだよね。
そしたら、こどもたちはその人のところを通るときだけ、すんごい静かにゆっくり動くようになっただけで、あとは一緒だった笑
 
しつけ云々、という話になりがちかもしれないけど、僕はそういうことを話したい訳でなくて。
その空間の公共性において、極端な方に目が行きがちだけど、その空間には多様な考えを持つ人もたくさんいるだろうなぁって思って。
 
子供の騒ぐ声が好きだっていう人や、ケンカぐらいならいいけど動き回るのはちょっと、っていう人。
むしろ、もっとやれ!って思っている人もいるかもしれない。
 
その時自分が思ってたのは、「僕は気にしてないよ」ということだった。
だから、謝らなくてもいいということをずっと考えていた。
なんか表明できたらいいなぁなんてずっと考えてた。
もっと自由に旅してほしいよ。
 
 
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ここからは別文脈の話。
 
無理やり地方の話に持ってくけど、確か山梨県での事例だったと思うけど。
スケボーパークの話。スケボーの音がうるさい、ということで閉鎖が決まったって話。うるさいっていった人は一人だったようだけど、許可をもらってなかったということもあってもつれてしまって閉鎖が決定したらしいだけど。
うるさいって確かに思っている人もいて、その場所で楽しみたいって思っている人の二つの視点でしか語られないんだよね。
中身ではなくて、この構図がおじさんとドイツ人家族と一緒。
 
スケボーパークでプレイしているのを遠くから見るのが好きって思ってた人もいるだろうし、
スケボーはよくわかんないけど、彼氏に連れられて来たっていう子もいたと思う。
 
なんだか、そもその公共性のあるものが2つに分けられて、何かをジャッジされるのなんだかなぁって。今は対立軸だけで物事が考えられてるけど、では複数の軸があったの時の「解」ってなんだ!って言われるとわからない、というのが現状だけど。
 
飛行機の例でいったらやっぱ「僕は気にしてないよ」を表明したかった、ということだろうけどね。

「この地域は、気づいてない魅力がたくさんあります。」はもうやめよう。

これは、地域課題を扱っているとよく聞く言葉。
東京のコンサルタント、まちづくりを研究している学生。某企業。
もともと住んでた人を内の人としたら、それ以外から来た人は外。
よく見えてるからこの言葉を言うんだけどね。
 
自分でも、この言葉、もうやめたいなぁと思って整理のために記したい。
(もちろん気づくことは大切なのだけど。)
 
気づく、気づかないかが問題ではなく、その魅力を叩けるか叩けないかが問題だ。
 
今、商店街が厳しい、厳しいってどこも閉店だ!なんて聞きますけど、
その中で残っているお店って絶対ありますよね。
そのお店って何をしてますか、何をして来たんですか?
僕の街のとあるケーキ屋さん例なんですけど、「圧倒的に美味しい」んですね。
 
魅力が狭義な感じになっちゃいますけど、このお店は絶対、この「美味しさ」という魅力を
アップデートし続けていた、と思うんです。
逆に厳しい厳しいっていっていた方々は、ずっとウィンドウズ98を使っていたんじゃないかな笑
 
社会環境の変化の中で、この言葉「気づいてない魅力がたくさんあります。」
結局、気づく気づかないに関わらず「魅力」は、市場に揉まれる。
市場では何かで勝負し続けなきゃいけないんだな、と気づかされる。
叩き方を知らなかったら、確実に淘汰されるだけなんだ。きびしぃ!
 
 
魅力を形作るものって?
 
魅力の中に「クオリティ」という性質がある。ケーキ屋さんでいったら「美味しさ」
この性質で勝負しようと思ったら、本当にムズカシイ
クオリティにかわる何かの中に「地域にいいこと」というものもある。
「地域の高校生とこの商品作ったんです。」とか、ね。
でも、その地域のいいことは個人にとってプライオリティが低いことは気づいてない。
「地域にいいこと」って思っている性質の商品は、最初の一回買う程度で、あとは
「クオリティが高い」など、個人にとってプライオリティが高いものを買う。
結局、みんな正直なんだよね。忠実なんだよ。
絶対に「地域にいいこと」性質は長続きしない。
 
 それじゃ、何を叩いて行くの?
今残っている企業やお店や個人でやっている人はこの「叩き方」をずっとアップデートしながら、試行錯誤しながら、失敗や成功を繰り返しながら、今ままで来たと想像する。
叩くモノはそのひと次第なんだろうけど、「クオリティ」で勝負するのは難しい世の中だ。このモノについては自分もずっと試行錯誤してる。
 
さて、話を最初に戻す。
藁をもすがる気持ちでこの「叩き方」を得たい、というのもわかるけど、
簡単に得れるものでないのに得れなかったことを他人のせいにする内側の意識と
そこに漬け込んで、いい青写真、さも正解だといわんばかりの解答だけ見せる外の人の意識が垣間見できる。
 
この構図がイヤだったんだな〜とブログを書いてみてわかった。
この構図が出来上がる原因として、一つ思い浮かぶことがある。
 
主語がないまんま魅力が叩かれていこうとする体制だろう。
「誰が」したいのか、だ。
地域が、という主語はない。
 
「誰が」オーナーシップを持つのかわからないまま進む、ということだろうね。
 
 

ちなみに木下斉さんもtwitterでいってますね。

 

あなた自身の社会を読んで

 

あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書

あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書

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自分が行くかもしれない土地について、ちょっと前情報をっていうことで
スウェーデンの中学校の教科書を読んでみた。
 
少し前に話題になったらしい「あなた自身の社会」
あなた自身っていうのがとても北欧っぽい。
というのも、市役所に勤めている時に感じたのは、社会は公、つまり行政が担うものだという雰囲気を感じていたからだ。あなた自身というのは、どこか遠くで見ている感じではなく、ちゃんと社会の一部にいるという感じが伝わって来る。
 
さて、日本の地方自治の歴史を遡ると
地方自治法が制定されたのが1940年後半。戦後。
この時、日本は「豊かになりたい!」って思っていた。
ナショナルミニマム」「社会資本整備」を掲げて、日本の復興に力を注いでいったのよ。僕らのおじーちゃんおばぁちゃん。
プロセスについては割愛するとしても、今、日本はこの目標を達成したと言える。
 
そのプロセスで起きた弊害の一つに、社会を担うのは「公」という考えが蔓延してしまった。
個人の責任というよりかは、社会が求めていた、そういう社会だったという方が適切なような気がする。
ただ単に「豊かになる」という目標に、自分たちで考える、という作業は必要なかったのだ。国が決めたことを、はい、ヨロコンデェ!!と効率的・合理的にやる。ただそれだけだった。
 
 
「豊か」になったその後の日本は、今?
閉塞感や不平不満が漂っているように思える。
 
この感じにどうやって切り込んでこうかと、自分は日々考えているんだけど、一つのヒントがこの教科書じゃないかなぁと。
 
一つだけ補足しておくと、スウェーデンって教科書の検定?が廃止されていて、教科書は先生自身が選ぶらしい。なので、この教科書は、全部やるっていうよりかは、生徒の関心に合わせて、部分部分を取り上げているみたい。なので、教科書っていう言葉が持つイメージをそのまま使うのは語弊がある。
むしろ著者が見学に行った学校では補助的に使われている感じだった。
先生が選んだテーマを補助的に理解するために、この教科書を使っていた。
 
内容なんだけど、実社会につながるテーマが羅列されている。犯罪、性教育、株、クレジット、警察、教育、、、
 
そのテーマについて、多種多様、多角的、多面的な視点の「とい」を子供に投げる。正解はない。
例えば、犯罪を10個くらい羅列して、この犯罪を自分が悪いと思う順に並び替えて、その内容について、友達と比較してみよう。なぜその順番にしたのか、友達と話をしよう、とか。
 
事象について、いろいろな角度から議論している。
 
一方方向からの教育しか受けていない日本人にとって、多角的に物事を捉える、いま何を話をしているか、というか議論に必要な要素を持つことがすごく下手だと思っていて。
 
例えば、中田ヒデトシが後部座席に座った(日本代表で、バスの後部座席に座るのは決まって先輩で選ばれた人しか座れないっていうのを無視して中田が座っていた。)、というニュースがなぜか浮かんで笑  
先輩後輩の「礼儀」という観点からの視点が一番上になりそうだと思ったのよね。
ここで、いや、これは「イノベーションの視点」から考えると、と話出す人がいても、「あいつは礼儀がわかってねぇ!!!」っていって一蹴されそうなんだよね。
これは少し日本のムラ社会的発想にもつながるところがあるんだけど。
 
この正解がないテーマをみんなで話すっていう作業は、ハンターハンターのハンター試験でゴンが恋人か親を助けるときどうするか、みたいな正解がない回答を考えてた時に似てて、(その時のゴンは考えて他だけだけど)
みんなで共有する、話すっていうことが必要で。
ディスカッション。勝ち負けもない。ただその事象に対して、皆で触る、こねる、というような作業をかなりの量こなす。
勉強というより、生活を学ぶっていう方に近い。
 
この教育を通して、成熟した社会に立ち向っていく感じがするというか。やっぱ一つヒントになってるような気がするんだ。
じゃないとずっと人の責任にする人が出来上がっちゃうというか、ある事象に対して、ずっと行政のせいだ!あいつが悪い!って言ってたら何も進まないもんね。
 
あなたの社会であなたが社会の一員なんだよね。だから、あなたが何ができるかを常に考えなきゃいけない。
そして行動しなきゃいけない。
 
その結果、スウェーデンって世界で初めて脱石油国家を目指すとかを発表するとか、
やっぱり、経済を基盤にした感じよりか、どうやったら本当に一人一人が幸せになるか、っていう基盤をおいて議論してるんだろうなぁ(想像)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その前に
 
 
 
 
まずは大学院受からないとね笑