腹よわ男子の日記

お腹が弱い。ホラー映画が好き。これからスウェーデンの大学院に行きます。

「この地域は、気づいてない魅力がたくさんあります。」はもうやめよう。

これは、地域課題を扱っているとよく聞く言葉。
東京のコンサルタント、まちづくりを研究している学生。某企業。
もともと住んでた人を内の人としたら、それ以外から来た人は外。
よく見えてるからこの言葉を言うんだけどね。
 
自分でも、この言葉、もうやめたいなぁと思って整理のために記したい。
(もちろん気づくことは大切なのだけど。)
 
気づく、気づかないかが問題ではなく、その魅力を叩けるか叩けないかが問題だ。
 
今、商店街が厳しい、厳しいってどこも閉店だ!なんて聞きますけど、
その中で残っているお店って絶対ありますよね。
そのお店って何をしてますか、何をして来たんですか?
僕の街のとあるケーキ屋さん例なんですけど、「圧倒的に美味しい」んですね。
 
魅力が狭義な感じになっちゃいますけど、このお店は絶対、この「美味しさ」という魅力を
アップデートし続けていた、と思うんです。
逆に厳しい厳しいっていっていた方々は、ずっとウィンドウズ98を使っていたんじゃないかな笑
 
社会環境の変化の中で、この言葉「気づいてない魅力がたくさんあります。」
結局、気づく気づかないに関わらず「魅力」は、市場に揉まれる。
市場では何かで勝負し続けなきゃいけないんだな、と気づかされる。
叩き方を知らなかったら、確実に淘汰されるだけなんだ。きびしぃ!
 
 
魅力を形作るものって?
 
魅力の中に「クオリティ」という性質がある。ケーキ屋さんでいったら「美味しさ」
この性質で勝負しようと思ったら、本当にムズカシイ
クオリティにかわる何かの中に「地域にいいこと」というものもある。
「地域の高校生とこの商品作ったんです。」とか、ね。
でも、その地域のいいことは個人にとってプライオリティが低いことは気づいてない。
「地域にいいこと」って思っている性質の商品は、最初の一回買う程度で、あとは
「クオリティが高い」など、個人にとってプライオリティが高いものを買う。
結局、みんな正直なんだよね。忠実なんだよ。
絶対に「地域にいいこと」性質は長続きしない。
 
 それじゃ、何を叩いて行くの?
今残っている企業やお店や個人でやっている人はこの「叩き方」をずっとアップデートしながら、試行錯誤しながら、失敗や成功を繰り返しながら、今ままで来たと想像する。
叩くモノはそのひと次第なんだろうけど、「クオリティ」で勝負するのは難しい世の中だ。このモノについては自分もずっと試行錯誤してる。
 
さて、話を最初に戻す。
藁をもすがる気持ちでこの「叩き方」を得たい、というのもわかるけど、
簡単に得れるものでないのに得れなかったことを他人のせいにする内側の意識と
そこに漬け込んで、いい青写真、さも正解だといわんばかりの解答だけ見せる外の人の意識が垣間見できる。
 
この構図がイヤだったんだな〜とブログを書いてみてわかった。
この構図が出来上がる原因として、一つ思い浮かぶことがある。
 
主語がないまんま魅力が叩かれていこうとする体制だろう。
「誰が」したいのか、だ。
地域が、という主語はない。
 
「誰が」オーナーシップを持つのかわからないまま進む、ということだろうね。
 
 

ちなみに木下斉さんもtwitterでいってますね。

 

あなた自身の社会を読んで

 

あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書

あなた自身の社会―スウェーデンの中学教科書

  • 作者: アーネリンドクウィスト,ヤンウェステル,Arne Lindquist,Jan Wester,川上邦夫
  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 1997/05
  • メディア: 単行本
  • 購入: 5人 クリック: 90回
  • この商品を含むブログ (39件) を見る
 

 

 
自分が行くかもしれない土地について、ちょっと前情報をっていうことで
スウェーデンの中学校の教科書を読んでみた。
 
少し前に話題になったらしい「あなた自身の社会」
あなた自身っていうのがとても北欧っぽい。
というのも、市役所に勤めている時に感じたのは、社会は公、つまり行政が担うものだという雰囲気を感じていたからだ。あなた自身というのは、どこか遠くで見ている感じではなく、ちゃんと社会の一部にいるという感じが伝わって来る。
 
さて、日本の地方自治の歴史を遡ると
地方自治法が制定されたのが1940年後半。戦後。
この時、日本は「豊かになりたい!」って思っていた。
ナショナルミニマム」「社会資本整備」を掲げて、日本の復興に力を注いでいったのよ。僕らのおじーちゃんおばぁちゃん。
プロセスについては割愛するとしても、今、日本はこの目標を達成したと言える。
 
そのプロセスで起きた弊害の一つに、社会を担うのは「公」という考えが蔓延してしまった。
個人の責任というよりかは、社会が求めていた、そういう社会だったという方が適切なような気がする。
ただ単に「豊かになる」という目標に、自分たちで考える、という作業は必要なかったのだ。国が決めたことを、はい、ヨロコンデェ!!と効率的・合理的にやる。ただそれだけだった。
 
 
「豊か」になったその後の日本は、今?
閉塞感や不平不満が漂っているように思える。
 
この感じにどうやって切り込んでこうかと、自分は日々考えているんだけど、一つのヒントがこの教科書じゃないかなぁと。
 
一つだけ補足しておくと、スウェーデンって教科書の検定?が廃止されていて、教科書は先生自身が選ぶらしい。なので、この教科書は、全部やるっていうよりかは、生徒の関心に合わせて、部分部分を取り上げているみたい。なので、教科書っていう言葉が持つイメージをそのまま使うのは語弊がある。
むしろ著者が見学に行った学校では補助的に使われている感じだった。
先生が選んだテーマを補助的に理解するために、この教科書を使っていた。
 
内容なんだけど、実社会につながるテーマが羅列されている。犯罪、性教育、株、クレジット、警察、教育、、、
 
そのテーマについて、多種多様、多角的、多面的な視点の「とい」を子供に投げる。正解はない。
例えば、犯罪を10個くらい羅列して、この犯罪を自分が悪いと思う順に並び替えて、その内容について、友達と比較してみよう。なぜその順番にしたのか、友達と話をしよう、とか。
 
事象について、いろいろな角度から議論している。
 
一方方向からの教育しか受けていない日本人にとって、多角的に物事を捉える、いま何を話をしているか、というか議論に必要な要素を持つことがすごく下手だと思っていて。
 
例えば、中田ヒデトシが後部座席に座った(日本代表で、バスの後部座席に座るのは決まって先輩で選ばれた人しか座れないっていうのを無視して中田が座っていた。)、というニュースがなぜか浮かんで笑  
先輩後輩の「礼儀」という観点からの視点が一番上になりそうだと思ったのよね。
ここで、いや、これは「イノベーションの視点」から考えると、と話出す人がいても、「あいつは礼儀がわかってねぇ!!!」っていって一蹴されそうなんだよね。
これは少し日本のムラ社会的発想にもつながるところがあるんだけど。
 
この正解がないテーマをみんなで話すっていう作業は、ハンターハンターのハンター試験でゴンが恋人か親を助けるときどうするか、みたいな正解がない回答を考えてた時に似てて、(その時のゴンは考えて他だけだけど)
みんなで共有する、話すっていうことが必要で。
ディスカッション。勝ち負けもない。ただその事象に対して、皆で触る、こねる、というような作業をかなりの量こなす。
勉強というより、生活を学ぶっていう方に近い。
 
この教育を通して、成熟した社会に立ち向っていく感じがするというか。やっぱ一つヒントになってるような気がするんだ。
じゃないとずっと人の責任にする人が出来上がっちゃうというか、ある事象に対して、ずっと行政のせいだ!あいつが悪い!って言ってたら何も進まないもんね。
 
あなたの社会であなたが社会の一員なんだよね。だから、あなたが何ができるかを常に考えなきゃいけない。
そして行動しなきゃいけない。
 
その結果、スウェーデンって世界で初めて脱石油国家を目指すとかを発表するとか、
やっぱり、経済を基盤にした感じよりか、どうやったら本当に一人一人が幸せになるか、っていう基盤をおいて議論してるんだろうなぁ(想像)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 その前に
 
 
 
 
まずは大学院受からないとね笑
 

バイアスを拡張させる魔物

 
魔物は偏見、見方、経験、色眼鏡、たくさん呼ばれ方がある。。
その魔物に取り憑かれた状態はタチが悪い。
 
横文字で言えばバイアス。タガログ語で言えばサリサリ(ウソ)
 
これってなんでおこるの?っていうかもうデフォルト。
マックくらい頻繁にアップデートしてくれないと(自動で)、自分もすぐメガネが曇る時がある。
 
 
注意深くしないといけないんだ。
 
村上春樹の主人公がいいそう。
 
 
市役所に勤めていた時は、痛いほど公務員バイアスを感じていた。
飲み屋に行けば、隣の席の人があることないこと、いや、ないことないことで盛り上がっていたり。
時には、新聞で叩かれたり。(とある記者が言ってたものね、公務員の失敗は正直、おいしいって。)
カウンターでも、お前の頭を豆腐くらいに柔らかくしてやりてぇよと言われたり。
 
うーん。なんでだろうね。
なんか心で思ってた小さい(本当に小さい鬱屈)なんかの拍子に、爆発する感じなんよね。
自分的には、小さい鬱屈が集まる地獄が公的な場所だと思ってたけど。
 
 
そんな小さな鬱屈。
 
留学中に出会ったバイアス。中韓日の間でおこった他愛のない会話から。
 
韓国にチェジュっていうすんごくいい島があるんだって。景色も素敵だし、バケーションに最適らしくて韓国人にとって
誇りを感じる島。
でも、最近中国人が観光で来て、チェジュ島を汚している。。らしい。
(まぁ、多分、住んでるわけじゃないから、きっと何らかの媒体で情報が入ってきてそう思っているのだと思うけど。)
 
そのことで、やっぱり 小さい鬱屈が爆発。中国人の留学生に向かって、中国人がチェジュ島を汚しているんだと。
ちょっとした口論になったんだよね。
小さい魔物。
 
僕らのオヤジ世代も(これもバイアス)少なとくとも自分の親は すぐ中国を小馬鹿にしたりします。「またコピーしてるよ。まぁた環境問題を起こしているか(これ自体にすごく悪意があるという感じではないんだよね。。。)
けど、実際にたくさんの中国人の人が観光客として地元に来てて、そのきてる人たちのマナーが悪かったりすると、
「あー、ほんと中国人はマナーが悪いよ (だから、コピーするよね。だから、環境問題も悪いわ)」という風になる。
この時の 「だから」ってほんとはつながりがないのにもかかわらず、 バイアスを拡張させてないかなぁと。
 
 
lこの拡張された部分がすごく、 きになるんですよ。僕。この 余白というのか。
等身大以上のことが、尾ひれとして付いてくる。
 
僕らはこの余白に注意深くいなければいけない。
物事を見る目を曇らせてしまうから。 

伝えるにまつわるetc

「文章で伝える」ということに関心がある。
多分、世の中には伝え方はたくさんあって、その定義も様々だけど、
だれかがだれかに届けようとすること、だと解釈してる。
 
ただ、伝えよう、とするときに自分の場合尻込みする。
どうやって伝えていいかわからなくなる。
 
自分が伝えたいなぁって思ったのは、最近。
 

二つの思い。

 
まずは、自分自身が発信したい、思いを表明したい、共有したいんだけど、
この根底にあるものって「いかり」かな。
なんかしょうもないことがはびこっているのはイヤ、ムカつくぅって単純におもっちゃう。
自分自身がもっと居心地よくいたいのかな。気持ちいい人たちといたいし。
はい、ごめんなさい。利己的で。
 
もう一つは思いがある人の思いを伝えたい、と思っていること。
具体的には、今までスポットがあまりあたってない公務員の人をとりあげたいんよね。
公務員の人って言いたいことも言えない、ポイズンゥゥゥン!!ってなってる人がたくさんいる。
表明があまりしにくい世の中で、けど、表明しないとさらに悪い方に向かっちゃって。
だから、自分が巫女機能を果たして、媒体者になろうかと。
 
この根底ってなんだろうなぁ。もっと関係を正したいというか。
行政に対して、厳しい目で見るのはもちろん良いのだけど、
けど、ビートたけしさんの言葉を借りると、フランス料理屋で、日本料理だせ!!!って駄々をこねるような
案件が多いような気がするんだよね(実感値)
自分自身も、詩集を出したいんだけど行政が協力してくれ!!!っていう話を延々と聞かされた時もあるし。
 
行政がセーフティネットどころか、そこにしかコミュニケーションをとれる人がいなくって、
寂しがりやが公共機関に集まってくるよ。別件でこの件について深掘りしたいな
 
話を元にもどすと、なんかこういう状況をもう少し正常にしたいというか、ここら辺は自分の使命かなと
考えていて、みんなと公務員の関係性が編み直されたら、もっと色々なことがまわると思うんだよね。
 
その方が世界がまぁるくならへん?
 
 

そこで問題は伝え方!!

こういう風に思うようになってやっぱ、伝えたくなってきたのだけど。
職業柄、そして、産業カウンセラーとして「きく」ということについては、得意なのだけど。
その内容を「伝える」ってなると、、、なんだな。
 
だから、どうやって伝えようと途方にくれる。
自分が持っているヒントの一つとしては、歌に込めるという表現を通す。
歌の構成要素を分解すると、メロディ、歌詞、ライブで歌う順番、表情など、そういった「どうやって」のヒントが出てくるのだけど、
「文章」になると、言葉が少なくなる。多分、構成とか汎用的な要素もあるんだけど。
 
一番は、「何」を伝えたいんのかっていうのがぼやけてるんだよな。いや、正確にいうと
「何」をというよりか、「何を」を適切な形に変換することができないんだ、自分が。
読み手がいるときに、「何を」という素材をちゃんと料理することが大切なんだな。
相手の好みに合わせて、ちゃんと消化できるように。そして、食べたい!いや、どんな味なんだろう、かな。

 

社会課題化する社会課題

僕がまだ地方公務員として市役所に勤めた時の話。
自分たちの街くらい田舎だと地方新聞が独自の立ち位置にあって、主要な新聞社を抜いて
トップシェアを誇る。=世論、と考えている行政職員は多い(主観ね)。
 
下っ端の職員は朝8時にきては、全社の新聞をチェックしては、職場の先輩方に報告。
特に地方紙は、トップに君臨していることもあり、隅々まで確認。
(一回驚いたのが、レアルマドリッド優勝!!!と言う記事と、
地元の偉い人が〜の賞をとった!が同じくらいの扱いだった笑)
→これが重要で、ローカルにとって、価値感が全く変わってくる、ということなんだよね。
この感じは、まちづくりに関連している人はわかる感覚じゃないかなぁ。
 
さて話を戻すと、
最初ちょっと面倒だったんだけど、全社を見れる機会ってないし、
新聞社によって、同じ記事でも扱いや表現も違うし、色々な情報も得れるし、
すごく興味深かったんだよね。
女の子に振られた時に「人生相談」みたいな記事に同じような境遇で相談している人がいて、
親鸞教えを説いてて親鸞にハマった時期があったのもいい思い出。
 
 その習慣を通して、考えたことがあったんだよね。
 
 
「社会課題化する社会課題」
 
いま、みなさん、テレビとかネットとかラジオやら何の媒体でもいいんですけど
「人口減少」って聞かない。人口が減っててヤバイとか、20何十年には、
地方が消滅するとか、年金はどうすんだとか、子供が増えないからだとか!
どこかで目にしたり、聞いたりしてると思うんだけど。
このニュースっていま、ある程度の人が認知している問題だと思うのだけど、
 
この課題っていつから言われてるのよ?
 
ちょっと実感値で説明していい?
多分ね、人口減少問題って結構前から言われてたと思うの。(これは今回とは別の問題)
けど、今ね表面化してきたのはなんでだろう。
実際のところ、自分が毎朝毎朝新聞を読んでいた時に、2年前くらいに突然、新聞の一面に
「人口減少!!!!」ってどこの新聞も一斉に取り上げ始めたの。
 
最初、え?そうなの?ってのが印象。
 
ただ、一過性のモノではなくて、いろんなメディアでこのことをね、取り上げはじめたんだよね。
そうするとさ、人口減少がなんか 社会の課題の一つを担っている!って言う雰囲気というか、
社会の課題を説明する時に、枕詞みたいに、人口減少が〜〜〜っていう風になってんだよね。
 
一気に、人口減少が社会課題として扱われた感!
って言ったら半端なかった。
 
確かに人口が減るっていうこと自体は、いろんな捉え方の中の一つに課題っていう風に見れるけど、
それよりも、僕は、この「雰囲気」って何ってすごく感じている。
さも、人口減少が課題として祭り上げられているかのような。
 
実態がない崇拝、のような。
盲目になっているのか、盲信しているのかさえわからない。
 
この空気を作ってものって何だろうなぁ。
  • 課題(=仮想の敵)の実態がない。
  • 困る人が(今の所)目の前にいない。
  • 実際に問題になるのは、年数が必要。
  • 盲信的になっている人への違和感
  • かつ、その枕詞がないとが説明ができない。(課題だから、対策させて!)

この空気自体と、この空気の伝染しやすさにものすごく関心がある。

 

 

人口減少社会の設計―幸福な未来への経済学 (中公新書)

人口減少社会の設計―幸福な未来への経済学 (中公新書)

 

 

ちなみに僕は、この人口減少に対しては、減少する方にどうアジャストしていくかというスタンスです!