腹よわ男子の日記

お腹が弱い。ホラー映画が好き。スウェーデンの大学院でサステナビリティとリーダーシップの修士号をとりました〜。

ちょっとしたプレゼンのテクニック


f:id:araiobake:20190305202517j:image

はい、今回も写真と内容は、関係ありません!

前回、プレゼンのコツとした、相手を恋人だとおもって徹底的に相手のことを考えよ!ということを、いったので今回はちょっとしたプレゼンのテクニック的なところをお伝えしようかと。

 

思いつくまま、ランダムにいきます。合理性や全体を見渡して文書つくるのが苦手なので。

 

まず、マジックナンバーってしってますか?人間に処理能力に関係するのだけど。人間って短期的にはいっぺんには三つ、四つくらいのことしか処理できなくて。(ひとによっては増減するけど。)

 

例えば、12+36=?って二桁くらいの数字は処理できるけど、1456+128=?ってなっても処理できない。他には、ルールを3つ説明します!っていわれて3つは覚えられるけど、ルールは5つあります!っていわれて説明されたら、最後の5個目を説明するころには一つめが忘れてるっていう。

 

人間の処理能力には限界がある。

 

っていうことは覚えてください。ここからわかることは、スライドに情報をつめすぎないことです。けっこう、大学の先生とかに多いんですけど、スライドに全部の説明をのせちゃうっていう。情報量が多いんですね、ひとめみて。僕がいつも注意するのは一スライド、一情報ですね。それぐらいでやっとみんなの情報量が追い付く感じがします。

 

つぎに、どんなひとが参加者か、ですな。例えば、自分の専門であるサステナビリティをプレゼンするときに、自分の親が参加者の場合と、環境を扱う会社の従業員に説明する場合、圧倒的に枕言葉の量が違うんですね。前者の場合、ものすごい前提を説明しなければならない。

 

次。スライドの紙バージョンを配るのはやめましょう。その紙に集中して、プレゼンをきいてもらえない可能性がでてきます。これね、配っちゃうんですよねー、、、せっかくの機会なのに、プレゼンをしてるひとをみないで、紙をみてるのはもったいないです。

 

ネクスト、といいたいところですが、いまちょうど3つ。ほら、ちょうど情報量いい具合でしょう?

プレゼンのコツ


f:id:araiobake:20190301231817j:image

はい、画像と内容は一切関係ありません。ブログをひさしぶりにひらいてみたら、意外と継続的に見てくれてるひとがいる!とおもって、急にまた、やる気がでてきました笑

毎日とはいわないまでも、2、3日に一回は書きたいよね。アウトプット大事。

 

さて、最近ひさしぶりにプレゼンをする機会、みる機会があったのでプレゼンのコツをまとめておこうかとおもいまして。

 

すんごい大事なこといいますよ。

 

あなたの大事なプレゼントは、だれに届けますか?ってこと。まぁ、会社の上司へは気持ちが入らないこともわからないことないですけど、恋人へのプレゼントだったら、みんな真剣に考えますよね。

スポーツが好きなこだったら、アディダスのランニングシューズなんかもいいかなとか。旅行が好きで、ゆっくりするのが好きなら、温泉旅行をプレゼントするとか、いろいろあるとおもいますけど、

要は、だれにプレゼントするかで内容は大きくかわってきますよね。だから、相手のことを真剣にすんごい考えるんです。そうすると、コンテンツはだんだん決まってきませんか。

 

つぎに、コンテンツを通じてあなたが相手に伝えたいことはなんでしょうか?

 

ここに注意が必要かもしれません。あれこれ伝えたいことがあり過ぎるパターンです。恋愛でも、好意がある、デートしてほしい、好きである、結婚してほしい、こどもがほしい、これらをいっぺんに相手に伝えたらどうなりますか?笑

そうです、なるべく、あなたが伝えたいメッセージはひとつに絞りましょう!相手にすべてを受けとるキャパがあったら、べつですが、ほとんどの人は、ありません。あとはその大きなメッセージを伝えるための演出やテクニックに関わるところになってきます。

 

次回につづく

 

 

血、でてますよ。

僕はもともと市役所に勤めていて、税務課を経験したことから、経理など事務的なことを処理するのが得意だ。
たまに友人に頼まれてたりするので、確定申告を手伝ったりする。ちょうど2年ぶり?に地元に戻ってきて、ヘルプが発動されたので、友人の家にお邪魔してきた。
 
ひとしきり入力も終わって、やれやれとビールを飲みながら話をしていた時のこと。
友達の奥さんも友達なのだけど、←なかなかややこしい言い方だね。とある記事を読んだときに違和感を感じて、その違和感がなんなのかっていうことについてジックリと話し込んだ。一通り話し終わった後に出てきたのは、盲目的に見ている世界がもしかしたらとても気持ち悪いものなんじゃないか、という問いだった。
 
僕はホラー映画か好きである。市役所時代に悶々とした気持ちを発散させるために、気が狂ったようにホラー映画を見ていた。何が面白いかということの説明がうまくできないのだけれど、とにかく「愛」を感じる。例えばジェイソン、まだCGが発達していなかった中、ジェイソンが被害者の頭を潰すというショッキングなシーンを撮りた勝ったのだろうけど、テクノロジーが追いつかない。そこで考えた策は、精巧とは言い難い人形を作って潰す、というシーンが撮られていた。スローモーションにすると、圧倒的にギャグである。人形からビョーンと可愛らしい目玉が飛び出ていた。でも、このシーンを撮りたい!という情熱というよりかは、執念のようなモノを感じた。
そこからホラー映画は、怖いを感じるものではなく、作り手の愛を感じるジャンルになったのである。
 
そのころは、休みには3本くらい、平日にもちらほらと見ていたので、ホラー映画を100本ほど年間で見ていた。3日に一本みるという狂気の沙汰。まぁ、それくらい見てると、だんだんといろんな神経が狂ってくるんだよね。内臓が飛び出ようが、首がもがれようが、目玉が食べられようが、ふーむ、くらいの感覚で見ているようになるの。
それでね、僕の友達は全くホラー映画を見ないのだけど、それは個人的な理由から、まぁ見るのが怖い、っていうこと。その「普通」の感覚が呼び戻したことが、とあるホラーを全然見ない友人が言ってたこと。

「怖い映画を見ないのはさ、だって血がビューって出るじゃん。」 
 
はい、二人の感覚から思い出したことがありました。ええ、ホラーってね、ホラーという名の通り、こわいんですよ。血がビューって出て、気持ち悪かったり、不快だったり。
それってさ、作り手の愛を感じるというレイヤーの前にさ、血がビューって出るってすんごいこわいよね、冷静に考えると。僕は病院で勤務していたことがあったのだけど、一回緊急で運ばれた手術に立ち会ったことがあったの、通訳として。そんときに感じたのは、リアルな不快感でしたよ。血がビューって。
 
盲目的に見てるモノってもしかしたら、見えてないモノがあるんじゃないかっていう話。
だからさ、ホラー映画を見ている人には「血、でてますよ」って教えてあげるのが、ちょっと俯瞰的に見るためのドアをノックしているのかもしれない。
 


わからないものを説明するとき、の補足

サステナビリティの世界観

 
サステナビリティの世界観を説明するときに、違う文脈でアインシュタインニュートンが出てくる。
一つは、産業革命以後の世界観を作った創始者的なポジションで語られることがある。
もう一つは、アインシュタインの考え方。新たな課題解決をするときは、古い考え方を捨てなければならないってやつ。
 
今回言及したいのは、前者。
アインシュタインとかってなにか起きている現象を、なぜ起きているのか解明できる、という考え方を持っていた。(とサステナビリティの世界観では持ち出す。)
結局、その世界観から何がキーワードとして出てくるかっていうと、「合理性とか論理性」なのだ。
 
例えば、僕は今仕事なし、肩書なし、貯金なし、っていう状態なのだけど、自分のパートナーがそのことを女友達に話をしたとすると、
(合理性、論理性を基にして)いや〜〜、そいつはないでしょっていう風な結論を下す(はず。)
 
僕がエレベーターに閉じ込めれらた女性を助けたことや、リスクをおかして大学院に挑戦するなどの話は出てこないにしても、聞いたとしても、上記の「職なし、金なし、肩書なし」状態がきっと勝ってしまうだろう。
 
合理性や論理性は、全て数値化できるような気がする。30代でどれくらい稼いでるだとか、ついてる会社の株価はどれくらいだとか、貯金はいくらだという合理的な計算から、
30代半ばではこれくらいだろう、という友人たちは結論を下す(気がする)かといって僕が経験してきた体験は、数値化はできなさそうだよね。回数としてはできるかもしれないけどさ。
 
この合理性や論理性を基にした見方が世界を圧巻している、というのがサステナビリティの基本的な考え方なんだけど。
みんなはどう思うかな?
 
この考え方とは反対に、関係性すなわち包括性に着目するのがサステナビリティを語る上で重要になってくるのだな。
 

わからないものを説明するとき


f:id:araiobake:20190108211832j:image

先日書いたエントリで、自分が学んできたことを整理してみた。けれど、入口の段階であるにもかかわらず説明がすんごく難しいことにきづかされた。日本ではまだまだ馴染みのない領域であるし、そもそも学んできた言語が英語だから、英語から日本語に変換しなければならない。もともと難しいうえに、さらに困難がつきまとう。

 

よく物事を説明するときには小学一年生に説明するように言葉を選びなさい、ときく。例えば、僕は海外にいってコミュニケーション能力が鍛えられたとおもうけど、コミュニケーションという便利な言葉も小学生には、わからないから別の言葉を探すしかない。そして、一昨日のこと。自分が学んだことを両親に説明してみた。この説明をするプロセスで二つ感じたことがある。それはまず、物事を説明するときはオーバー60にわかるように説明しようも、小学生のそれと同義であること。

 

そしてもうひとつは、コミュニケーションという言葉をおきかえるプロセスのことだ。コミュニケーションをおきかえると、ひとつに、ひととひとでお話をして、お互いがなにをおもってるか、かんじているかを考えたり、確認したりすること、とかっていま思いついたのだけど。この作業によって「コミュニケーション」は、かなり具体的かになってるとおもうのだね。

 

その具体的なものを曖昧にしてるのがマジックワード「コミュニケーション」で、っというか日本語ってこういうことがものすごい多いのね。スウェーデンにいったこと、そして、両親に説明してるときに気づいたこともうひとつのこと。

 

「ますますのご活躍を期待してます。」↔なにに対してご活躍するかわからない、活躍ってなに?

 

この曖昧さが余白を生むこともわかったし、逆に曖昧さを生んでよくわからないということもわかった。どちらが正しいというわけではないけども、ぼくはどちらのコミュニケーションも好きですね。はい。

まぁ、いずれにしろオーバー60に説明することは、ひじょーうに難しいということがわかった一日でした。